そんな言葉を聞くたびに、
私は胸の中に問いが浮かびます。
――いったい、誰がその決定を下したのか?
私は胸の中に問いが浮かびます。
――いったい、誰がその決定を下したのか?
近年、大企業が数千人規模の
人員削減を行うニュースは、
もはや珍しくありません。
職を失う社員たち、支える家族。
人生の設計そのものが
崩れてしまうような出来事に、
社長が頭を下げる記者会見の映像が流れます。
社長が頭を下げる記者会見の映像が流れます。
でも、そのたびに私は考えるのです。
「本当にその決断をしたのは、誰だったのか」
「なぜ、そこに至ったのか」
「その責任は、どこへ向かうのか」
「会社」「組織」という言葉は、
とても便利です。
でも、それを盾にして、意思決定をした
個人の顔が見えなくなってしまう。
まるで、巨大で匿名の手が、
誰にも触れられないまま
物事を動かしているように感じます。
誰が決め、誰が進め、誰が伝えたのか――
末端の社員たちに伝えられる頃には、
決断の経緯も、関わった人の名前も、
すっかり霧の中に消えてしまっている。
すっかり霧の中に消えてしまっている。
責任は、どこにあるのでしょうか。
毎日現場で汗を流していた社員たちに、
その責任を背負わせることが、
本当に正しいのでしょうか。
本来、その「組織」という名の船を
動かしている船頭たち。
未来の地図を描き、
進路を定める立場の人たちこそが、
その舵を誤ったのではないか。
なのに、彼らが自ら船を降りて
責任を取ることは、
なぜこれほどまでに少ないのでしょう。
不思議なことに、組織が大きく
なればなるほど、責任はあいまいになります。
個人事業主や小さな会社であれば、
「あの人の判断だった」と、
すぐに名指しされるのに。
なぜ、規模が大きくなった瞬間に、
個人の意志は薄れ、
誰も責任を取らなくてよくなってしまうのか。
それは、いつから
「許されるもの」になったのでしょうか。
大きな組織であることを理由に、
私たちは誰の意志で何が決まったのかを
見えないままにしていないでしょうか。
だからこそ、私たちは問い続けなければ
いけないのだと思います。
「これは、誰の言葉なのか?」
「誰が、責任を持つのか?」
その問いを投げかけることこそが、
組織を、そしてこの社会を、
少しでも誠実なものへと
近づけていく第一歩なのではないか。
私は、そう信じています。
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